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第83回かながわ中央メーデー

 投稿者:ワタリ  投稿日:2012年 4月29日(日)22時55分7秒
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  4月28日(土)横浜「臨港パーク」3万1千人参加
メインスローガン「東日本大震災の惨禍を忘れず、被災地とともに、働くことを軸とする安心社会を実現しよう」
サブスローガン・メーデー宣言のどこを探しても原発問題がない。労働者の祭典といわれてきたが「労働者」という単語もなかった。原発と労働者という単語を抜きにしたメーデーであった。そして空は晴れわたっていた。
 
 

さようなら原発1000万人アクション3/24

 投稿者:ワタリ  投稿日:2012年 3月26日(月)07時32分45秒
返信・引用
  3月24日、日比谷野音で6000名が参加して、
脱原発1000万アクション集会が雨の中
(天気予報では晴れで気温も高い)開催されました。
鎌田慧、澤地久枝、辛淑玉、落合恵子さんらのスピーチがありました。
脱原発1000万署名はまだ半分強だそうです。5月の最終集約まで、
ご協力ください。
多くのシニア運動の仲間が参加していました。
 

Peace On Eeath

 投稿者:Bonta H  投稿日:2012年 3月12日(月)12時10分2秒
返信・引用
  「原発いらない3.11福島大会」行が叶わずモンモン、何か行動を・・・と家を出る。
桜木町で反原発デモを応援、2:46電車内で黙祷、日比谷公園の「Peace On Earth」に参加した。”元気鍋”を食し”福島ジュース”を飲し、トーク&ライブを楽しんだ。途中、東京の反原発デモを応援しながら数寄屋橋まで足を延ばし「東日本復興応援プラザ」で買い物支援、再び日比谷公園へ。
報道によれば、各地の集会はそれぞれ相応の参加者を得て盛り上がったようだ、どこまで持続できるか、これからが正念場になる。1年を区切りとせず「自分ごと」とし続ける、と、我心に誓おう。
郡山集会から駆けつけた加藤登紀子氏が紹介した「どうして市民運動は一緒に出来ないのかね」(永六輔氏の言という)の発言が印象に残った。彼女のライブの迫力、行動の素早さ強さはどこからくるのだろう、同い歳の小生としては少し恥ずかしい。
少しだけ充実した3月11日を過ごした、凡太の報告です。
 

東海第2原発ハイロアクション

 投稿者:ワタリ  投稿日:2012年 2月27日(月)18時46分14秒
返信・引用
  東海第2原発は東京電力ではなく日本原電である。その東海第2原発の再稼働を8月末を目指している。東海村の村長は脱原発を宣言しているが、議会で賛同しているのは20人の議員の中で3名のみということ。そこで、東海第2原発を「人間の鎖」で囲み、茨城から全国にアピールするという「東海第2原発ハイロアクション」を実施することになった。神奈川からも協力しようということで参加してきた。
2月26日(日)に神奈川平和運動センターの一員として(私は厚木爆同から)横浜駅西口からマイクロバスで茨城へ…
バスの中では厚木爆音第四次訴訟団の斉藤事務局長から2月8日の米軍機の部品落下事故の話や神高教平和運動推進員会の小島さんの原発の学習会であっという間に茨城に着いてしまった。
渋滞がなく早めに着いた私たちは、原発推進のための展示館「アトムワールド」に行き、見学後にそこの休憩室を借りて昼食のシュウマイ弁当を食べた。さすが「アトムワールド」はお金を使っての展示場であった。
「人間の鎖」は750名の参加で東海第2原発の一部を囲んでの行動であった。


 

やはりメール頂きました。

 投稿者:watasan  投稿日:2012年 1月28日(土)08時40分48秒
返信・引用
  セミナーに参加されていた人から同じようなメールを頂きました。
「退職者セミナーに参加してきました。いろいろ話がありましたが退職した諸先輩の現実的な話が一番ためになりました。~弁当はイマイチでしたが。」
とありました。
M氏の「家計から見たあるシニアライフ」は好評だったようですね。
 

ライフプランセミナーお疲れ様でした!

 投稿者:わた・み  投稿日:2012年 1月23日(月)19時43分53秒
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  世情に疎いボクでしたが、ある知人からメールをいただき、シニア運動の方が「神高教ライフプランセミナー」に参加され、今春退職予定の方々にお話をされたということを知りました。その知人いわく、「Mさんのお話が一番タメになった!」と。その人、シニア副代表のMさんのことを知らないので、「たぶん、そうなのでは?」ということでメールが送られてきました。
その人、あまり藤棚には来ない人だし、ましてや教研集会などにもあまり参加されていないので、Mさんの名前がわからなかったようです。このセミナーには事務局長のNさんも参加されていたようですが、さすがにこの知人でも、有名なNさんを知らないはずはありませんからね。
シニアの先輩がその体験談を話すのが一番、リアルでよいと思います。役員の方々は大変だったと思いますが、そうした参加者からの感謝の声を聞けば、勇気百倍になると思います。Nさん、Mさん、小雨が降り、寒い中、大変お疲れ様でした。
 

鼻歌三丁矢筈斬り

 投稿者:ワタリ  投稿日:2011年12月30日(金)22時44分29秒
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  「神奈川高校教職員九条の会」総会(12月23日横浜市開港記念会館)での話
落語で日本語を習得したという米国生まれの詩人アーサー・ビナード氏の講演で「鼻歌三丁矢筈切り」というフレーズを聴いた。これも落語からのものらしくて、腕の立つ侍によってもの凄く切れる刀で切られても気づかず、鼻歌を歌いながら三丁も歩いたあとにまっぷたつになって絶命するということだ。放射能を浴びて、すなわちズバッと切られてもその時は気付かず、何年か経ってから白血病などの病気になるという比喩で話された。切られるのは身体の奥の奥の細胞で、しかもDNA。 「ただちに影響はない」ことだけは確かだ。
 

今こそ、シニアの力を!

 投稿者:わた・み  投稿日:2011年12月12日(月)08時25分20秒
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  ボクは昨年から、某県立高校の生徒の学習ボランティア・コーディネーター(自称)をしています。数人の学生さんが高校生に英語や数学のいわゆる「補習」を行っています。そうした学生のボランティアと高校をつなぐのがボクの役目。

本当は地元の高校で、地域の老人組織(地区社会福祉協議会)を使って、やってもいいかと考えていましたが、これ以上しごとを増やすと、こちらがもたないので断念しました。恐らくこうした話を持ち込めば、高校側は「地域連携」にもなり、大喜びだと思います。

某高校まで学期に1~2回、学生の取り組みぶりを見に行きますが、乗り換えが4回もあることから、往復で1800円近くかかります。どおりでパスモがすぐなくなるわけです。もちろん、自腹を切っているわけですが、その割にはおなかが引っ込みません(笑)。困ったもんです。

さて、シニア運動は本体の高教組とは違い、組織率は右肩上がりで、これからもどんどん加入者が増え、うれしい悲鳴を上げることになると思います(勝手な思い込みで恐縮です)。そこで、シニアに集まるすぐれた人材をもっと有効に活用する(これぞ、地域貢献)道を開拓し、展開することが求められているのではないでしょうか。

県はなによりも「学力向上」を図ろうとかつてのナンバースクールには「重点校」だか「推進校」だかの看板を与え、予算はごくわずか、そこの教員に忙しい思いをさせています。

しかし、それ以外のところでは…。ましてや「学力不足」が目立つ「課題集中校」などは置き去り状態です。そうしたところで、シニアが「補習」の手助けをすることは可能だと思います。シニアの方々なら、たとえどこまで行っても「図書カード」でOKな訳ですから、実に手軽だと思います。「昔とった杵柄」で高校生の学力向上、進路保障に貢献できると思うのですが、いかがでしょうか?

そろそろ新年度に向けたシニアの運動方針を、役員会レベルで議論し始める時期かと思います。これからどんどん増えるであろう退職者(シニア)を迎えるにあたって、ぜひともユニークな取り組みにチャレンジしてほしいと思います。またこのことが、シニアを元気にする原動力にもなると確信しています。(以上、「気軽に投稿を」とあったので、妄想を思いつくままに書かせていただきました)
 

教研集会に行ってきた

 投稿者:わた・み  投稿日:2011年10月30日(日)09時49分40秒
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  昨日、総合産業高校で開催された組合の教研集会に参加しました。受付には副代表のMさんがおり、ありがたくも図書カードをいただきました。

お昼は定時制の生徒たちが食べる「給食」をいただくことができました。これはとても貴重な経験でした。ボクも30年以上前の「不完全給食」(このような言い方はありませんでしたが、当時、完全給食という言い方があったので、その前は「不完全」かな?と思って)時代から知っていますが、当時の事情とは随分と変わりましたね。昔を懐かしく思い出しました。

総合産業といえば、元ダイコーで、N事務局長さんがここで大活躍した職場。ボクも何度かここに来ていますが、今回初めてグラウンドをのぞいてみました。なかなか広いですね。黒いジャージは見かけませんでした。いつ行っても、恵まれた施設だなあと思います。

午後の分科会は、「高校教育を考える」分科会に顔を出しました。12名前後の参加でした(うち2人は組合の執行部)が、新しい入試制度で採り入れられる「面接」をめぐって、議論がありました。もっとたくさんの方々が参加されるかと思いましたが、どうも…。

「教研改革」を進めようとのことですが、これで果たして「改革」の端緒となったのでしょうか?

シニアとしては交流会もありますが、それとは別にこの「教研」でも分科会を1つ立ち上げることはできないでしょうか? また、職場が大変!と言われている割には、そうしたなかで取り組まれている「職場づくり」(こんな言葉も今や死語かも?)の実践報告も出てこないのは淋しい限りです。

帰りがけの玄関前で、元同僚の養護教員に会いました。シニア会員の方ともお会いしましたが、ボクと同様に「無業シニア」(再任用や講師などをしていない人たち)は数名だったようです。もう少し、集まってもいいのにね。

昔からよく使うボクのスローガンを最後に。「教研を強権にしよう!」
 

旧制中学

 投稿者:わた・み  投稿日:2011年10月 7日(金)17時42分46秒
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   ボクは旧制中学の卒業生ではありません(笑)が、Bontaさんの投稿を読み、神奈川の旧制中学の歴史をちょっとまとめてみる気になりました。
 神奈川は全国に比べ、中学の設立が遅かったとされています。県内トップはいうまでもなく、一中と言われた、現希望ヶ丘(1897年)。最初は県尋常中、そのあと県中学、そして1900年から一中に改称。01年、二中(これが現小田原)が開校、次いで02年に三中(厚木)、08年に四中(横須賀)が開校しました。
 大正に入り、13(大正2)年に第二横浜中(翠嵐)が設立されるとき、一中は第一横浜中と改称(23年に横浜一中、横浜二中と改称)されました。このとき同時に、二中から四中が、小田原、厚木、横須賀中とそれぞれ改称されました。(神奈川には五中はなかったようなので、ごちゅう意ください!)
 その後は、1920(大正9)年に湘南中、23年に横浜三中(緑ヶ丘)、27(昭和2)年に川崎中が開校となりました。高等女学校としては1901年の神奈川高女(後に県立高女、第一高女に改称。現平沼)が誕生しています。第二高女は1936(昭和11)年に開校(現立野)。
 翠嵐を二中と呼び、小田原と混同しやすいですが、今見てきたように、明治時代で「二中」といえば、現小田原高校(細かくみると、旧小田原は統廃合)を指すのです。厳密にいえば、翠嵐は「横浜二中」と言った方が正解かもしれません。
 湘南は、本来ならば藤沢中と命名されるはずでしたが、すでに同名の私立があったので、湘南と名付けられたようです。しかも当初は長後地区に作られる計画もあったのですが、海岸寄りの現在地に建設されたみたいです。
 長々と書き込み、失礼いたしました。

 

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