teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助 youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


書き込みありがとうございます。

 投稿者:Bunkou  投稿日:2017年10月14日(土)23時47分34秒
返信・引用
  せっかく投稿していただいたのに長く気づかず申し訳ありません。
内容を認めていただき、ありがとうございます。
もう少し体系的になるように続きを更新したいと思いながら、
年月ばかりが経ってしまいました。
ご意見や疑問などありましたら、またお書き込み下さい。
論じ合うことで切磋琢磨出来たらと思います。
ありがとうございました。
 
 

まだ更新されているのでしょうか

 投稿者:Sora  投稿日:2017年 8月26日(土)02時22分37秒
返信・引用
  驚きました。
論理、幸福、秩序と順に自分の中で考えを深めてきたものが、
あなたの「秩序主義」のサイトでは
全く同じ、あるいはより考えが深められた形で書いてあったのです。

これほど面白く、これほど効率的に自分の考えを成長させられるサイトを
ずっと探していました。
本当にありがとうこざいました。
 

不毛人

 投稿者:Bunkou  投稿日:2014年12月 3日(水)12時35分0秒
返信・引用
   自分の回りを荒涼としていく者、それが『不毛人』である。

『不毛人』は、横暴、横着、横柄、大げさ、大雑把、
無謀、無頓着、短気、陰険、陰湿、身勝手である。

「不毛人」は回りの者の存在を無視し、平気でその価値を否定する。

回りの者は「物」であり、それもほとんどが使えない、邪魔ものである。

『不毛人』は、その態度から、回りの人間を威圧し、緊張させ、
大きなストレスを与えて、やがて回りを不毛にしていく。


 彼らはいつもイラ立っている。

彼らは不満だらけである。

彼らは敵意に満ちている。

彼らは思い通りにならないと、すぐに感情的になる。

彼らは朗らかに笑うことはない。

ヒステリックに笑うだけである。

穏やかさもなく、優しさも思いやりもない。

いつも攻撃的である。


 彼らは回りのことを考えない。

自分勝手に振舞うだけである。

傍若無人(ぼうじゃくぶじん)、やりたい放題である。

そして彼らには強いプライドがある。

彼らの目標は勝つことである。

勝って、自分の思い通りにことを運びたいのである。

思い通りに運んで、それが何かの役に立つわけではない。

結果的に何かに有効なことはあっても、
彼らの目標は勝つことである。

自分のプライドを守ることである。

それだけである。

そのプライドにしても、確固たる信念があってのものではない。

本能的に存在を主張したいだけだ。

だからさらに強いものが現れると、媚る。

その者に媚びへつらう。

その強い者に従ったほうが有利と思うからだ。

なりふり構わない。

しかしその者のことを気遣っているわけではない。

その者の存在感が弱くなれば、簡単に無視するようになる。


 「不毛人」は、回りの調和や秩序を考えない。

そして、今ある調和や秩序を、意味のないものとする。

周りの者も、彼らの威圧感や否定感から、
不快を恐れ、彼らの機嫌をとるようになる。

彼らに逆らうのをやめ、彼らのいいなりなっていく。

回りの者も秩序を守る意味を見失なっていく。

「不毛人」は、自らが環境の秩序を破壊する「癌」であり、
そして関わる回りの環境を次々に「癌化」していく。

実際に、その者に長く関わっていて、
身体に「癌」を発生させる者もいる。


 「不毛人」には、明確な悪意はない。

だから彼らの行いは「輩(ヤカラ)」に近いが、「輩(ヤカラ)」そのままではない。

「輩(ヤカラ)」は回りを無視しない。

回りのことを知って、そして他者を陥れていくのである。

明確な悪意を持っている。

「輩(ヤカラ)」は自分が勝つだけでなく、自分が勝って得するように
企てるのである。

「輩(ヤカラ)」にも、回りを不毛にしてしまう者はいる。

ただ、完全に不毛にしてしまうことはしない。

そうすれば、自分が損するからである。

だが他者にただ勝てばいいという「不毛人」は違う。

明確な悪意はないが、また誠意もない。

隠された敵意があるだけだ。

時には善意を見せることがある。

だから回りの人間は、安易に彼らと関わってしまう。

油断して、彼らのペースに巻き込まれる。

そして後には、荒涼とした「不毛」が残るだけとなる。


 「不毛人」は、「小人(コトナ)」の強力型である。

「小人(コトナ)」には、いくつかの傾向がある。

それは彼らが、多少、回りの環境から影響されるからである。

「小人(コトナ)」には、まだ無邪気さが残る

しかし「不毛人」は、ほとんど回りからの影響を受けない。

まさしく「小人(コトナ)」のモンスター化したものである。

「小人(コトナ)の偏向性を強力にして、
傍若無人に振る舞い、やりたい放題をする。

「不毛人」は、「輩(ヤカラ)」と「小人(コトナ)」の中間とも言える。

  「不毛人」に誠意や情けはもちろん通用しない。

彼らに思いやりや気遣いは通用しない。

しかし彼らは回りにそれ要求する。

それらが欠けている者に対して、ひどく非難する。

そしてもちろん彼らに、それらの思いはまったく欠けている。


 彼らと敵対しても勝ち目はない。

誠意ある者は。秩序や回りとの調和を重んじる。

それらを無視する「不毛人」に、太刀打ちできるわけがない。

彼らは「なりふり構わない」のである。

自分の行動や言動に矛盾や理不尽があっても気にしない。

正論をどんなに理路整然に説いても、彼らは耳を塞ぎ、
うるさいというだけである。

または、へ理屈で対抗してくる。

誠意ある者が勝てる相手ではないのである。


 彼らに対応するには、

   近づかない

   関わらない

   取り合わない

   気にしない


だが、実社会において、どうしても彼らにかかわらずに
おれない場合が多い。

精神的な面を含め、明らかな実被害を受ける場合は、
何としてもその場から去る、逃げるのが得策である。

しかし逃げれない場合が多い。

その場合、彼らを「操る」ことも必要である。


 「不毛人」は、自分の思う通りにことを運ぼうとする。

どんなに効率が悪く、無駄や無理があっても、
自分の思い通りにしたいのである。

そうならないと機嫌が悪い。

だから年中、機嫌が悪い。

誰かのせいで、思いが叶わなかったら、
その者をひどく憎む。

自分のプライドが傷つくからである。

彼らは、「存在本能」に基づくプライドによってのみ、
行動している。

誰にも負けたくないのである。

だから、その彼らの横暴は「空回り」のことが多い。

何の意味もないことが多い。

「無視」してもかまわない場合が多い。

彼らの横暴が「無視」できないのは、、
あなたの「思い込み」であり、
あなたのプライドが「彼らを許せない」からであることが多い。


 彼らの横暴に傷ついたあなたのプライドは、
彼らを許せないと憎む。

憎しみを握りしめて、あなたは苦しむ。

それでは、本能のプライドだけで振る舞う「不毛人」と同じである。

彼らは怒りを撒き散らし、あなたは撒き散らさない、
ただそれだけの違いである。

彼らと同じ立場に立たない。

彼らの一段上に立って、彼らを「操る」。

彼らを、彼らの気づかないように導いて、被害を少なくするのである。

そういう思いが、この怒りのループから、あなたを外れさせる。


 あなたが彼らを罰することはない。また出来ない。

あなたが彼らに対抗すれば、それは火に油を注ぐだけである。

彼らは反省もしなければ成長もしないからである。

あなたが彼らに抗すれば、彼らはさらに意地になって、
さらにあなたに、無謀を繰り返す。

あなたの存在感を無視し、あなたの価値観を否定する。

だが、秩序や調和を乱す「不毛人」はやがて、自らに罰せられる。

因果応報である。

秩序や調和は、人々が幸せに生きるためにある。

それらを大切に扱わない者は、幸せに近づけない。

禍を引き寄せてしまうのである。

彼らを相手にしない。

彼らの不幸に巻き込まれない。

屈辱を受け怒りに打ち震え、彼らを許せないという
そんな自分のプライドへのこだわりを捨てる。

一段上に立って、彼らを「操る」。

「大人」になるということである。

彼らに「大人」の対応をするということである。


 社会では多くのストレスを受ける。

精神的なストレスのほとんどが、人間関係から生まれる。

あなたの回りに、「小人(コトナ)」や「不毛人」あるいは「輩(ヤカラ)」が
いるからである。

そして「不毛人」のいる環境では、事態は一切変わらない。

その混乱した状態がいつまでも続く、彼らがいなくなるまで。

彼らは反省もしなければ、成長もしないからである。

心あるものは、やがて彼らから離れていく。

そして彼らは回りの者を「物」と思っている。

彼らは孤独の中にいる。ただ彼らは、それも平気である。

彼らは人との関わりから生まれる喜びを知らない。

荒涼な心、彼らはまともな「人間」ではない。

彼らに「大人の対応」をすること、大人になること、その道標が「哲士道」である。

https://sites.google.com/site/bunkouishikawashinkurabo/

 

『ペリー提督日本遠征日記』の中にあった意味深な言葉

 投稿者:うさぎ  投稿日:2013年10月27日(日)13時17分21秒
返信・引用
  『ペリー提督日本遠征日記』の中にあった意味深な言葉

http://music.geocities.jp/jphope21/0203/32/207_1.html

「日本に諜報員を常駐させねばならぬ」

( http://music.geocities.jp/jphope21/0102/5/180.html )
 

小人(コトナ)論

 投稿者:Bunkouメール  投稿日:2012年 1月30日(月)16時24分30秒
返信・引用
   幸福を求めるならば、秩序が必要である。
秩序とは、すべてのものにおいて整理整頓されていることである。
混乱雑多の中にいては、目指す幸福を見失い、
追い求める道筋がわからず、足掛かりもない。

 だが、秩序に縛られることはない。
秩序は幸福を求める手段である。
身の回りの環境が変われば、秩序も変わる。
また、今の秩序が大雑把すぎる場合もあれば、
秩序が細かすぎる場合もある。
現状に即していない秩序は、それを守るのに負担が多くかかる。
秩序を見直し、新たに作るためには、
今の秩序をあえて壊す必要もある。
整理整頓をより合理的にするためには、
今の整理棚を取り外さなければならないこともある。
秩序は、いつも論理性、システム性、シンプル性、バランス性によって
見直される。
そのために身の回りの環境はいつも把握されていなければならない。
環境をたえず把握し、理解し、それに合った秩序を構築するためには、
人の能力の向上が必要である。
ゆえに人は、成長を望む。
幸福を求めるということは、自分の成長を求めるということでもある。

 人は誰でも、多少は自己中心である。
自己中心で、物事を考える、
そういう強引さも、世の中を渡るには必要である。
しかしそれは、自分を取り巻く環境をある程度把握してである。
秩序を構築するための強引である。
今の整理棚を取り外す強引である。
そういう思い切りも必要である。
だが根本には、自らの成長への望みがある。

 自分の成長を顧みない者たちがいる。
幸福を望まないのではないが、
自分の成長を望む必要性を強く認めないのである。
彼らには明確な「悪意」はない。
彼らは、自己中心なだけである。
自分勝手に生きるだけである。
気に入らなければ、自分を取り巻く環境を変えようとするが、
それは気まぐれである。
だから秩序の構築も望む必要がない。
環境のことも考えなければ、自分のことも深く考えない。
だから自分の成長など思いもしない。
彼らは未成熟のまま成長を止めてしまった人たちである。
彼らは成長しない「子供」、
「大人」になりきれない「大人」である。
彼らを、「小人(コトナ)」と呼ぼう。

 人はそれぞれの環境の中で生きる。
その環境との係り合いにおいて、
大人は状況を理解し、調和を図ろうとする[調和型]。
そこに合理的な秩序を構築しようとする。
他人には、気遣いや思いやりを持って接する。
だが小人(コトナ)は、環境の係わりにおいて、
次の三つのタイプで対応する。


  [攻撃型] 環境に対して敵対的、攻撃的になる。
       感情反応が強い。

  [無視型] 環境を気にしない、状況を考慮しない。
       快楽欲求が強い。

  [逃避型] 環境に対して保身的、逃避的になる。
       不快苦回避欲求が強い。

 これら三つの対応型から、
小人(コトナ)はいくつかの性分を示す。


 [攻撃型]

  癇癪(かんしゃく):気に障るとすぐに感情的になる。
            機嫌が良かったり悪かったりが極端である。
  頑固(がんこ)  :思い込みが強い。
            自分の思い通りにならないと機嫌が悪い。
            融通がきかず、考えを変えない。
  仏頂(ぶっちょう):何に対しても不平不満である。
            いつも不機嫌で、文句が多い。
            不満から人に嫌がらせをすることがある。
  苛立(イラだち) :不満からいつもイラついている。
            嫌味や捨て台詞が多い。せっかち。
            イラツキから人に嫌がらせをすることがある。
              小言(小言)    :気に入らない者にすぐ小言や注意をする。
            自分は抜け目なく行動しようとする。
  横暴(おうぼう) :しぐさが乱暴。
            人への非難が激しい。
  偏屈(へんくつ) :他人の意見に従うのを嫌がる。
            自分の意見(へりくつ)を押し通す。

 [無視型]

  我儘(わがまま) :思いつきで他への迷惑を考えない。
            他人は自分の道具であるという思いが強い。
  嘘吐(うそつき) :自分を正当化するため手段を選ばない。
            嘘に嘘を重ねていく。
  猛進(もうしん) :思い込んだら突き進む。
            他人の存在が目に入らない。
            自分が主になり他人に任せられない。
  愚鈍(ぐどん)  :物事を十分に理解しない、できない。
            間が抜けている。早とちりする、
            がさつ。
  餓鬼(がき)   :なりふり構わず欲望を通す。
            品位がない。
  適当(てきとう) :無責任。
            自分に都合よい理解でことをなす。

 [逃避型]

  小心(しょうしん):臆病で、物事の成り行きを悪く考える。
            消極的、保守的。
  陰気(いんき)  :他に対して強く働きかけない。
            自分の世界に閉じこもっている。
  卑怯(ひきょう) :他人のせいにする。
            肝心な時に逃げる。
  無情(むじょう)  :感情が乏しい。
            他人の感情に気づかない。
  無頼(ぶらい)   :他人や自分に対しても強い関心がない。
             興味のあることだけをする。

 これらの性分は、複合的に表われる。
誰もがこれら小人(コトナ)の要素を持つが、
その甚だしい者が「厄介な人」となる。

 自分だけが幸せになるのでなく、自分を取り巻く回りも幸せになれば、
より人生は豊かで、安定し、楽しさに満たされる。
より幸福になれるのである。
それが満たされたとき、人はただの快感ではなく、爽快を感じる。
爽快の風が吹くのである。
秩序欲求が満たされたとき、人には爽快の風が吹く。
それは成熟した人生に、人を導く風である。

 小人(コトナ)は爽快の風が吹くことに気づかない。
または、爽快の風に吹かれたいとは思わない。
目の前のつかの間の快楽や不快回避にとらわれているからである。
そして彼らは、厄介と不快を回りにばらまく。
それは「陰鬱な淀み」を生む。
そこは険悪・陰湿、殺伐、不安が渦巻いている。
その淀みは、容易には吹き払うことは出来ない。
その淀みに巻き込まれてはいけない。
渦巻く陰鬱な、感情と欲望に巻き込まれてはいけない。
小人(コトナ)と同じステージに立ってはいけない。
彼らの厄介と不快をまともに受けるだけである。
彼らは異常である。
異常に正常が敵うわけがない。
こちらも異常にされるだけだある。
彼らは一見、正常に見える。
それに誤魔化されてはいけない。
程度の差があれ、彼らは異常である。
淀みを上から傍観する、そういう心構えが必要である。

 人には三つの大きな本能がある。
生存本能(命を守る)、種存本能(子孫を残す)、
そして存在本能(自己を主張する)である。
これらの本能は、様々な欲求を引き起こす。
だが、それらの欲求がすべて叶うことはない。
また他人にも様々な欲求があるため、多くの衝突が起こる。
葛藤が生まれる。
欲求不満が起こる。
そして激しい抑圧は、心に損傷を与える。
損傷は心に、強い怒り、不安、悲しみ、怯えを残す。
これら葛藤、不満、損傷を解消するため、意識はいくつかの理屈で、
自分を納得させようとする。
意識は環境、経験、学習によって得た知識で、それらの理屈を作り出す。
どのような理屈で納得するかは、それぞれの人の生まれつきの気質に
よる。
子供はまだ経験が十分でないため、その理屈が未熟であるが、
やがてその理屈が成熟し、理性的になっていくことが、
大人になることである。
その理屈が理性的であるかどうかを顧みず、
自分が納得した理屈を盲信し、未熟のまま停滞してしまった者が、
小人(コトナ)である。
その理屈は筋が通っているいないに関係なく、
信念となって、その者を支配する。
その信念は、続く経験や知識によってさらに強く塗り固められていく。
自分の信念に都合のいい知識ばかりを取り入れ、
不都合なものは排除していくからである。
そしてそれは、その者の鎧となる。
その鎧は身を守るために、他の何も受けつけない。
その身を縛りつけ、成長を止める。
性質はさらに歪み、どんな失敗をしても決して態度を改めない。
態度を改めることは、過去の自分を否定することとなるからだ。
過去の自分を正当化しておくため、成長を拒否するのである。

 人が人と接するとき、互いの利害関係が不明な時は牽制が起こって、
互いの言動にも遠慮がある。
しかし互いの利害関係が明確になり、
自分に優位性があるとわかると、小人(コトナ)は本性を現す。
小人(コトナ)は遠慮なく、立場の下の者を傷つける。
 良識ある大人は、相対する者を、通常は自分と同じ良識ある大人と
思っている。
そして相対する者の、自分に対する態度を気にする。
相手がまさか小人(コトナ)だとは思っていない。
そして、小人(コトナ)の横暴をまともに受け取る。
混乱し傷つき、後悔しクヨクヨ悩む。
われわれは、その者が小人(コトナ)であるかどうかを
見抜かなければならない。
その者の言動に誠意がなく、異常を感じれば、
その者は小人(コトナ)の可能性がある。
小人(コトナ)とわかれば、その者の言動を真に受けてはいけない。
まともに相手にしてはいけない。
彼らの厄介や混乱を冷静に切り抜ける。
彼らに敵対してはいけない。
彼らの「厄介」は、他人だけでなく、やがて自分にも降りかかっていく。
やがて彼らは自滅していくのである。
暴走する者は強く、回りを蹴散らしていくが、
やがて大きな事故を起こす。
彼らの横暴は、結局、彼ら自身で罰せられるのである。
 われわれが恐れ、敵対するのは、彼らではなく、
自分の中にすむ小人(コトナ)の要素である。
誰もが心に持つ小人(コトナ)の要素を、
大人として制御することである。

ご意見ご感想、お待ちしています。
 

幸福の船

 投稿者:Bunkouメール  投稿日:2011年10月 8日(土)19時05分21秒
返信・引用
   人は幸福を求める。
幸福とは、楽しく、豊かで、安定した状況にあることである。
だがそれら三つの要素は並列にあるのではない。
「安定」が底辺にあり、その上に「豊かさ」があり、そしてその上に「楽しさ」がある。
船に例えるならば、船の構造が「安定」であり、「豊かさ」は船の設備であり、
そしてそれらがそろって、船旅の「楽しさ」がある。
これらのバランスが崩れた状態は、快いかもしれないが、幸福の状態ではない。
完全なバランスがないように。幸福にも完全はないが、状態にレベルがあるということである。
人が幸福を目指すならば、より高いレベルの「幸福の船」に乗ることである。

 底辺の「安定」には秩序が重要である。
秩序を求めることによって、安定がもたらされる。
そのためには「秩序思考」が必要である。
「秩序思考」は、論理思考、システム思考、バランス思考、シンプル思考からなる。
論理思考は、ものごとを因果関係(確率)から見て、原理原則を重視する考え方であり、
システム思考は、ものごとを多方向(多元的)から見て、仕組みや計画を重視する考え方である。
バランス思考は、極論になることを避けて全体の調和から見る、確率や統計を重視する考え方であり、
システム思考は、思考の筋道が複雑になるのを避けてわかりやすくする考え方である。

 「安定」にもとづく「豊かさ」は「自由度」とも言い換えられる。
「安定」や秩序は拘束の度合いが強い。
必要な拘束の中で、より自由であるのが「豊かさ」である。
たとえば人の移動距離には限り(拘束)がある。
乗り物を使えばその移動距離(自由度)は広がる。
その乗り物を選べることが「豊かさ」である。
しかし100m先へ行くのに自動車を使う必要はない。
それは無駄(贅沢)である。
無駄は「安定」を脅かす「豊かさ」である。
しかし「安定」や秩序は、そのままの状態でずっと維持されれば良いというものではない。
より安定化、秩序化するように変化(成長、成熟)していく必要がある。
今の状態を見直しできるのが、この「豊かさ」から生み出される無駄でもある。
無駄は「安定」を脅かして、それを改良する可能性を持っている。

 「安定」と「豊かさ」に満ちた船で航海すれば、多くの「楽しみ」に出会う。
いろいろな「楽しみ」に出会う機会を得る。
見過ごしてしまう「楽しみ」に気付く。
それはさらなる「豊かさ」や「安定」を生み出す。
人は「幸福の船」に乗ってこそ、真の幸福に出会えるのである。

 ご意見、ご感想お待ちしています。

http://www1.odn.ne.jp/~cev29720/kazebun-index.html

 

正義について(2)

 投稿者:Bunkouメール  投稿日:2011年 8月13日(土)18時27分32秒
返信・引用
   幸福を求めるなら、「真実」を求め「正義」を行う必要がある。
だが人は群れで生きる動物である。
人は社会という大きな仕組みの中で生きている。
それぞれが勝手に独自の「正義」を貫けば社会は混乱する。
そして自分の利益だけを優先して「正義」を求めない者もいる。
社会はいつも協調を必要としており、「正義」を求めながらも出来るだけ無用な混乱を避けようとする。
ゆえに社会において「真実」の追求が必ずしも最優先されるわけではない。
社会の協調を守ろうとする意志、それが「社会的責任感」である。
それが尊重される。

 「社会的責任感」も人それぞれ独自のものであってはならない。
多くは法律として明文化される。
また慣習、常識として漠然と規定される。
ゆえに「社会的責任感」と「正義」や「真実」との間には当然、ズレが生じる。
社会秩序を基準としてそれらを見直し、調和を図るものが「倫理」である。

 「倫理」は社会秩序を守ろうとする規範である。
「社会的責任感」による社会の協調より、また普遍の「真理」「正義」より、
現状の社会秩序を第一とする。
たとえば国家間の戦争は人類にとって「正義」ではないが(悪)、
その国家が生き延びるための「社会的責任感」から必要とされる場合がある(善)。
「倫理」は現状の社会秩序を尊重してものごとをとらえるため、
その時々によって戦争が悪であったり善であったりする。
だが「倫理」は決して中途半端なものではない。
「倫理」は社会秩序に基づいて「社会的責任感」や「正義」を牽制する。

 「真実」に基づく「正義感」があり、社会秩序を守ろうとする「倫理感」がある。
そして社会の協調性を尊重する「社会的責任感」がある。

 「倫理感」の弱い社会では、多く「社会的責任感」が過剰となる。
社会の協調性を重視するあまり、誤りや不正に目をつぶってしまうのである。
誤りや不正を指摘することによって、協調が崩れるのを恐れるのである。
その時の協調は崩れないが、やがて秩序が崩れ、ついには協調も何もなくなることが多い。
それは一見、責任感のない行動のように見えるが、
責任感がなければ後先のことを考えず、面白半分に何でも指摘できるのである。

 戦争中では敵兵を殺すことに躊躇はしない。
そこに人を殺すことへの良心の呵責は基本的にはない。
これも国を守ろうとする「社会的責任感」のなせるわざである。
「社会的責任感」の強い社会は、犠牲的精神が過剰となる。
それは自己犠牲だけではなく、他者にも犠牲を強要する。

 「倫理感」が弱いと、「正義感」も過剰となることがある。
ものごとはすべて理屈通り、完璧に進むわけではない。
ある程度の矛盾や不合理を含んでいるものである。
細かな誤りや不正は、目をつぶってやりすぎる必要もある。
それらをいちいち取り上げていては、社会に時間的資源的大きな損失(ロス)を生む恐れがある。
しかし誤りや不正を許すことを公にはしがたい。
それらは暗黙の了解と言った形で多く曖昧にされる。
「正義感」の強い社会では、それらは許されない。

 たとえばある商品に欠陥があったとする。
その欠陥が致命的なもので社会に害をもたらすものなら、公表して回収する必要がある。
それは「正義感」でもあり、「社会的責任感」でもある。
欠陥はあるが致命的ではない、気づかれない可能性もある場合は、
「正義感」は公表を主張し、「社会的責任感」は公表に二の足を踏む。
公表、回収による損失を恐れるからだ。
微小な欠陥の場合は、どうであろう。
「正義感」は万一の事故を恐れて公表を主張し、「社会的責任感」は公表しないだろう。
これらは一般的に起りうることである。
「倫理感」の正常な社会では、より効率よく「正義」が実行される。
すべてが公表されればいいということでなく、しかし肝心なことが隠ぺい(黙殺)されてもいけない。
社会自体の効率がよくなれば、「正義」は実行されやすくなり、
上の例のような公表か隠ぺい(黙殺)かの選択の悩みは少なくなる。

 社会には、「正義感」もあり「社会的責任感」もあり、「倫理感」もある。
そしてそれぞれの感覚の強い者や弱い者によって社会は構成され、
そこに利害関係が加わり、その時代の流れが関与して、
社会は複雑な仕組みとなる。
「倫理感」は、「正義感」と「社会的責任感」を調整するものである。
だが「倫理感」は、その社会の価値観に影響される。
「倫理感」は絶えず真実を追求する「正義感」に検証される必要がある。

 ご意見、ご感想お待ちしております。

http://www1.odn.ne.jp/~cev29720/kazebun-index.html

 

正義について

 投稿者:Bunkouメール  投稿日:2011年 5月29日(日)01時11分35秒
返信・引用
   人が望むのは最大多数の幸福である。
それを目指す人の意思が「正義」である。

幸福とは、「豊かに」「楽しく」「安定に」生きることである。
そしてそれを望む人には、「自己」と「他者」がある。
「自己」は「他者」より優先される。
「自己」を滅ぼしての幸福はないが、「他者」の甚だしい犠牲のもとでの「自己」の幸福もない。
「自己」と「他者」の幸福はそれぞれの状況においてバランス関係にある。
その場において、「自己」を優先させながらも「他者」との最大多数の幸福に導くように判断する意思が「正義」である。

たとえば暴走する列車を「自己」を犠牲にして止めることは「正義」ではない。
だが自分が、その暴走を止めれる最適の場所にいるなら、ある程度の確率でそれに挑むべきである。
その確率とは、「自己が犠牲になる」確率である。
「自己の幸福」だけを求める場合でも、自己が犠牲になる確率は0ではない。
他人の幸福も望むならそのリスクはより高くなる。
「自己が犠牲になる」確率がどの程度の時にそれに挑むかは、その人の「社会的責任感」の程度による。
自分がその列車の暴走の直接的な原因を引き起こしたものなら、「社会的責任感」は高い。

「社会的責任感」とは、他者との関係おいて、社会活動を円滑に行うための「義務」である。
「社会的責任感」は「正義」ではない。「正義」より下位に属する「意思」である。
たとえば「戦争」は、人の最大多数の幸福に導くものではないから、「正義」の行為とは言えない。
しかしその国や社会において正当とされる「戦争」に参加することは、「社会的責任感」を満たすものである。
逆に「正義」を貫いて、「社会的責任」を果たさない場合もある。
「正義」と「社会的責任感」はイコールの部分とそうでない部分がある。


 「嘘」をつくことは、多くの場合、その社会の秩序に混乱を引き起こす。
秩序の崩壊は人を最大多数の幸福へ導かない。
しかし嘘をつくことで、社会の秩序がより秩序的になることがある。
無秩序に秩序を築く場合もある。
ゆえに「嘘」をつくことは「正義」に反するとは言えない。

「嘘」をつくことは「倫理」には反する。
「倫理」とはその「現状の社会秩序」を守るための規範である。
「社会秩序」がよりよく変わることでも、それは「現状の秩序」を守ることにはならない。
だからそれは「倫理」に反している。

「正義」は状況によっては「現状の秩序」を変えてでもより最大多数の幸福を目指すが、「倫理」は「現状の社会秩序」を守ろうとするものである。
だが「正義」が「現状の秩序」を変えれば、それに応じてその規範である「倫理」も変わる。

「正義」は「自己の幸福」も要素に含むが、「倫理」に「自己」の要素はない。
「正義」と「倫理」は観点が違うため、どちらが上位で下位かは言えない。
これらもイコールの部分とそうでない部分がある。


 ご意見ご感想、お待ちしています。

http://www1.odn.ne.jp/~cev29720/kazebun-index.html

 

知性の整合性

 投稿者:ishikawaメール  投稿日:2011年 2月27日(日)17時29分41秒
返信・引用
   前回、命題が「真」や「偽」と割り切って判断できない場合が多いと述べました。これは絶対に「真」であると言い切れることはほとんどなく、「おおよそ真」「おそらく真」の場合がほとんどであると言うことです。すべてのことが「仮定」で成り立っているとも言えます
 詭弁者は、前回述べた10のパターンを利用して、「真」と「偽」を曖昧にすると述べましたが、ただの論議者もこれら「おおよそ真」「おそらく真」をその10のパターンを用いて、より「確実な真」と思わせようとします。これは論議をスムーズに進める上である程度、必要とせざるを得ません。批判者はその点をもって、論議者の論理を疑います。いたずらな批判者は、その曖昧さを突いて、論議を混乱させます。批判者の立場から、ふたたび10のパターンをあげてみます。

 (a) 権威や権力を批判する。
     「学者やその研究結果が正しいのか」
 (b)その場の状況(雰囲気、感情、道徳性)を批判する。
     「時間がないことを理由にしてはいけない」
 (c)データを不信用、または恣意的と批判する。
     「そのデータはいつ、どこで、どのようにとられ、どういう用い方をされたのか」
 (d)比喩を批判する。
     「比喩でそれらしく納得させてはいけない」
 (e)一般論や常識を批判する。
     「常識だからと言って、それが事実だと言えるのか」
 (f)発想の転換を批判する。
     「発想は面白いが、ただの思いつきとしか言えない」
 (g)論理の積み重ねを批判する。
     「風が吹けば桶屋が儲かる式の誤りだ」
 (h)論点をずれをを批判する。
     「別の論点とごっちゃになっている」
 (i)反論があることによって批判する。
     「反論があることをもっても、そのことが正しいとは言い切れない」
 (j)論理の不確かさを批判する。
     「論理が大雑把すぎる」

 論議者はある意味での「詭弁者」となって論議をスムーズに進め、自分の主張を正当化しようとします。批判者は論議者の主張の矛盾や誤りを指摘して、論議を留まらせて、議論をより確かなものにしようとします。論議の多くはそれら曖昧な状況のもとで、論議者と批判者のせめぎ合いによってもまれ、やがて曖昧ながらもそれなりに妥協された結論になります。
 論議はほとんどの場合、このように行われますが、ある意味で仕方がないものです。ここで重要となるのが「知性の整合性」という観念です。

http://www1.odn.ne.jp/~cev29720/kazebun-index.html

 

詭弁

 投稿者:Bunkouメール  投稿日:2010年 1月 7日(木)04時44分20秒
返信・引用
   論理とは二つ以上のものごとの関係を示す道筋のことを言います。
その関係とは、一つは所属の関係であり、一つは因果の関係でした。
そしてもう一つは、部分の和は全体であるという構造の関係です。

 これらの関係は、言葉で表されます。
そのもっとも単純化された関係を言葉で表したのが、「命題」です。
論理学では「命題」は、「真」または「偽」に分けられます。
しかし現実では、「命題」は「おおよそ真」、
または「おそらく真」となることが多くあります。
たとえば、「日本人は内向的である」という命題があったとします。
常識的に、この命題には多くの人がうなずくはずです。
しかし、「日本人」や「内向的」という言葉を正確に定義したとしても、
当然、この命題が「真」だとは言い切れません。
一部に、外交的な日本人もいるに違いないし、
統計調査があったとしても、サンプリング(抜き打ち)調査です。
サンプリング調査には必ず蓋然性(確実性)や信憑性の問題があります。
また特に「日本人」でなくても、
「人間は全て内向的である」のかも知れません。
だから正確には「日本人はおおよそ内向的」である。
または「日本人はおそらく内向的である」となります。
一般的な思考や議論は、いろいろな命題の
積み重ねや対立から成り立っています。
でもこのように漠然とした表現の命題をいつも用いていては、
思考や議論は不明瞭となって進まなくなります。
だから,この「おおよそ」や「おそらく」と言った表現は省略されます。
こうして実際のいくつかの命題は、
確かなのかそうでないのか分からないまま感覚的に使われてしまいます。
これが現実の常です。

 命題が「真」や「偽」と割り切って判断できないような、
以下のパターンがあります。

 (1)偽と真が混在している。
 (2)大雑把、大局的で、真とも偽とも言えない。
 (3)特殊的、部分的で、真とも偽とも言えない。
 (4)真に近い偽である。

 詭弁者は、上のパターンを利用して、「真」と「偽」を曖昧にし、
さらに「偽」の疑いを払う、または「偽」を「真」と思わせるような、
以下の方法を用います。

 (a) 権威や権力を用いる。
     「日本人は内向的であると学者も言っている」
 (b)その場の状況(雰囲気、感情、道徳性)を利用する。
     「日本人が内向的であることを今さら論じてる暇はない」
 (c)データを恣意的(都合のいいよう)に用いる。
     「日本人が内向的であることは東南アジアの比較データからわかる」
 (d)比喩を用いて、同じ意味だと思わせる。
     「井の中の蛙が外を見ようとしないように、日本人も内向的である」
 (e)一般論や常識が当てはまっているように思わせる。
     「日本人が内向的だということに誰も異論はないでしょう」
 (f)一般論や常識の思い込みを指摘して、発想の転換を正しいと思わせる。
     「アメリカ人は日本人よりもさらに内向的である」
 (g)論理を積み重ねることによって、正しいと思わせる。
     「島国に住む者は閉鎖的である。閉鎖的な者は内向的となる」
 (h)論点をずらして、正しいと思わせる。
     「日本人は内向的である。その内向性が武士道を生み出したのだ」
 (i)反論を否定する
     「日本人が内向的であることを否定する理由は、何一つない」
 (j)論理が誤っている
     「大陸の行き止まりにいる日本民族は、ゆえに内向的となる」

 詭弁者は以上のような方法で議論を不毛にします。
誤魔化しを行うために詭弁を使う者もいれば、それに気づかず詭弁を使ってしまう者もいます。
なぜ詭弁を使うのかと言えば、それは自分都合にものごとを進めたいからで、
「真」を求めることを第一としていないからです。
自分にとって都合のよい「真」をつい求めてしまうからなのです。
そしてそれは誰にも言えることであり、
私たちはそれを自覚し、注意深く議論を進めていくことにしましょう。

 ご意見ご感想お待ちしています。

http://www1.odn.ne.jp/~cev29720/kazebun-index.html

 

言葉について

 投稿者:Bunkouメール  投稿日:2009年 9月25日(金)00時12分28秒
返信・引用
   前回、言葉は二次的であり、ものごとの関係は三次元的、四次元的であるから、言葉でそれらを説明するには無理があると述べました。だけども逆に、三次元、四次元的なものを二次元的な言葉で説明するから、人は要約されて早く理解が出来るのです。それが言葉を使う利点であり、そして危険でもあります。
 その赤い果物を「リンゴ」と名付けることで、その言葉を使うことによって一瞬にして共通の認識でそのものを捉えることが出来ます。しかし「共通の認識」と言えど、各人によって多少の認識のズレがあります。そのズレを含んだまま議論が続いてしまう恐れがあります。これが上で述べた「無理」という危険です。
 だが言葉には、もっと危険があります。それはたとえば、この世に存在しないものや、漠然としたつかみどころのないものにまで、名付けてしまえるということです。言葉は認識を要約します。仮想の認識が要約されて、あたかもこの世に実在するように、人に錯覚をさせてしまいます。「社会」、「経済」とか「自由」、「平和」などの漠然とした観念が、そのように名付けられたことによって、まるでわかりやすく理解できるような錯覚をさせてしまいます。観念を要約すべき言葉が、言葉のニュアンスから勝手に新たな観念を作り出してしまうのです。
 ものごとの関係を示す論理も曖昧であると前回述べましたが、それを説明する言葉も曖昧です。しかし言葉を使わないわけにはいきません。そしてそんな言葉を使って、曖昧な論理を出来るだけ明らかにしなければなりません。言葉の持つ危険を十分に承知して、言葉を使うべきだと思います。そのためにはやはり前回述べた、「すべてのものごとには論理があり、それらは互いに矛盾しない」という法則をたえず意識して使用していくしかないと思います。
 ご意見ご感想お待ちしています。
 

はじめまして

 投稿者:Bunkouメール  投稿日:2009年 8月26日(水)05時10分54秒
返信・引用
  ようこそいらっしゃい。この掲示板でいろいろなことをこれから論じていきたいと思っていますが、はじめに論じることの基本である論理について述べてみたいと思います。

 論理とは「ものごと」の関係を示す仕組みをのことです。二つの関係があります。
 一つは「ものごとの所属の関係」です。たとえば「人間は哺乳類である」というような、その「ものごと」がどの集団に属しているかということを示すものです。「ものごと」はどれも、いくつかの集団に属してます。それらの所属をいくつか集合させることによって、その「ものごと」の全体象が顕わになり、それは定義として確定されます。
しかし、たとえば「人は泳ぐ動物である」というような全体の一部のみが所属している場合や、「人は経済的動物である」というような全体の一部分だけを示している場合もあります。これらの関係は「所属の関係」を複雑にし、その定義を不明瞭なものにしてしまいます。

 一つは「ものごとの変化」です。「ものごと」に何かがプラスされる、または何かがマイナスされることによって、全体が変化することを示します。「風が吹けば枝が揺れる」というような確率的な因果関係のことです。確率が100%ならばそれは数学的な関係となります。そして原因と結果の間には時間的経過があります。確率がからむため、どうしてもその論理は恣意的となってしまいます。

 一つ目の関係は三次元的、二つ目の関係は四次元的と呼ぶことができます。
そして言葉は二次元的なものです。二次元的なもので三次元、四次元的なものを説明しようとすると、当然無理が生じます。この無理がいろいろな議論をさらに不十分なものにしてしまうのです。

 そして「所属の関係」にも「変化」の関係にも、上で延べた曖昧さがあります。この曖昧さをなくそうとするのが科学の技術です。科学は分析や実験を繰り返すことにより、「所属」や「変化」をより明確にします。私たちはその情報を利用しますが、それら情報に精通しているわけではありません。だから私たちは「常識」に頼ります。「常識」である限り、やはり曖昧さは残ります。

 それをフォローするために、その論理が正しいかどうかを判断する二つの指針があります。一つは、「論理を外れるものはない」ということであり、もう一つは「互いに関連する論理は矛盾しない」ということです。この指針を用いて、できるだけ論理的に論じていきたいとおもいます。どうぞ末永くじっくりとお付き合い下さい。またご意見ご感想などありましたら、お気軽に書き込み下さい。

http://http://www1.odn.ne.jp/~cev29720/kazebun-index.html

 

レンタル掲示板
/1