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まちがいなし

 投稿者:じっちゃい  投稿日:2009年10月13日(火)21時22分25秒
返信・引用
  ご連絡の件、HPを見ましたが間違いなしですね。是非一度お願いします。  
 

備忘 しあわせについての考察の資料として

 投稿者:asobowzz  投稿日:2009年 7月29日(水)20時02分34秒
返信・引用
   南無阿弥陀仏のみ教えを信じ、
必ず仏にならせていただく身のしあわせを喜び、
つねに報恩のおもいから、世のため人のために生きる。

http://mujintou.lib.net/dharma/shinshu/shinshukyousyou.htm
 

歎異抄 第十五章

 投稿者:asobowzz  投稿日:2009年 2月28日(土)21時48分35秒
返信・引用
  一 煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと。
この条、もてのほかのことにさふらふ。
即身成仏は、真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
六根清浄は、また法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
来生の開覚は、他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり。
これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
おほよそ、今生にをいては、煩悩悪障を断ぜんこと、
きはめてありがたきあひだ、真言・法[*4]華を行ずる浄侶、
なをもて順次生のさとりをいのる。
いかにいはんや、戒行恵解ともになしといへども、
弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、
報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、
法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、
一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。
この身をもてさとりをひらくとさふらふなるひとは、
釈尊のごとく、種々の応化の身をも現じ、
三十二相八十随形好をも具足して、説法利益さふらふにや。
これをこそ、今生にさとりをひらく本とはまうしさふらへ。
『和讃』にいはく、
「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」とはさふらへば、
信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪迴すべからず。
しかれば、ながく生死をばへだてさふらふぞかし。
かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。
あはれみさふらふをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、
かの土にしてさとりをばひらくとならひさふらふぞ」とこそ、
故聖人のおほせにはさふらひしか。

http://www.otani.ac.jp/tannisyo/d_honbun/eisyo/ei_16.html

 

歎異抄 第十四章

 投稿者:asobowzz  投稿日:2009年 2月27日(金)01時04分11秒
返信・引用
  一 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。
この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をまうさずして、
命終のとき、はじめて善知識のをしへにて、一念まうせば八十億劫のつみを滅し、
十念まうせば十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。
これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念といへるか、滅罪の利益なり。
いまだわれらが信ずるところにをよばず。
そのゆへは、弥陀の光明にてらされまいらするゆへに、
一念発起するとき、金剛の信心をたまはりぬれば、
すでに定聚のくらゐにおさめしめたまひて、
命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。
この悲願ましまさずば、かかるあさましき罪人、
いかでか生死を解脱すべきとおもひて、
一生のあひだまうすところの念仏は、
みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。
念仏まうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、
すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそさふらふなれ。
もししからば、一生のあひだ、おもひとおもふこと、
みな生死のきづなにあらざることなければ、
いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。
ただし、業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、
また、病悩、苦痛をせめて、正念に住せずしてをはらん。
念仏まうすことかたし。
そのあひだのつみは、いかがして滅すべきや。
つみきえざれば、往生はかなふべからざるか。
摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、
悪業をおかし、念仏まうさずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。
また、念仏のまうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、
いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそさふらはめ。
つみを滅せんとおもはんは、自力のこころにして、
臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてさふらふなり。

http://www.otani.ac.jp/tannisyo/d_honbun/eisyo/ei_15.html

 

歎異抄 第十三章

 投稿者:asobowzz  投稿日:2009年 2月26日(木)18時12分6秒
返信・引用
  一 弥陀の本願、不思議におはしませばとて、悪ををそれざるは、
また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。
この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。
悪事のおもはれ、せらるるも、悪業のはからふゆへなり。
故聖人のおほせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりも、
つくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべし」とさふらひき。
また、あるとき、「唯円房は、わがいふことをば信ずるか」と、
おほせのさふらひしあひだ、「さんさふらふ」とまうしさふらひしかば、
「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねておほせのさふらひしあひだ、
つつしんで領状まうしてさふらひしかば、「たとへば、ひとを千人ころしてんや。
しからば往生は一定すべし」と、おほせさふらひしとき、
「おほせにてはさふらへども、一人も、この身の器量にては、
ころしつべしともおぼえずさふらふ」と、まうしてさふらひしかば、
「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとは、いふぞ」と。
「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、
往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。
しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。
わがこころのよくてころさぬにはあらず。
また、害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」と、
おほせのさふらひしは、われらが、こころのよきをばよしとおもひ、
あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことを
しらざることを、おほせのさふらひしなり。
そのかみ邪見におちたるひとあて、
悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、
わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、
やうやうにあしざまなることのきこゑさふらひしとき、
御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と
あそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり。
またく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。
「持戒持律にてのみ本願を信ずべくば、われらいかでか生死をはなるべきや」と。
かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。
さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられさふらはじものを。
また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、
野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、
あきなひをもし、田畠をつくりて、すぐるひとも、ただおなじことなり」と。
「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、
聖人はおほせさふらひしに、当時は後世者ぶりして、
よからんものばかり念仏まうすべきやうに、あるひは道場にはりぶみをして、
「なむなむのことしたらんものをば道塲へいるべからず」なんどといふこと、
ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。
願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり。
されば、よきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、
ひとへに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはさふらへ。
『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、
罪業の身なればすくはれがたしとおもふべき」と、さふらふぞかし。
本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、
他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ。
おほよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、
願にほこるおもひもなくてよかるべきに、
煩悩を断じなば、すなはち仏になり、仏のためには、
五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。
本願ぼこりといましめらるるひとびとも、
煩悩不浄、具足せられてこそさふらふげなれ。
それは願にほこらるるにあらずや。
いかなる悪を、本願ぼこりといふ。
いかなる悪か、ほこらぬにてさふらふべきぞや。
かへりて、こころをさなきことか。

http://www.otani.ac.jp/tannisyo/d_honbun/eisyo/ei_14.html

 

歎異抄 第十二章

 投稿者:asobowzz  投稿日:2009年 2月24日(火)17時51分0秒
返信・引用
  一 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。
この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、
本願を信じ念仏をまうさば仏になる。
そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。
まことに、このことはりにまよへらんひとは、
いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。
経釈をよみ、学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、
もとも不便のことなり。
一文不通にして、経釈のゆくぢもしらざらんひとの、
となへやすからんための名号におはしますゆへに、易行といふ。
学問をむねとするは、聖道門なり。難行となづく。
「あやまて学問して、名聞利養のおもひに住するひと、
順次の往生、いかがあらんずらん」といふ証文もさふらふべきや。
当時、専修念仏のひとと、聖道門のひと、諍論をくはだてて、
「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はをとりなり」といふほどに、
法敵もいできたり、謗法もをこる。
これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。
たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり。
その宗、あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、
われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、
信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、
さらに上根のひとのためにはいやしくとも、
われらがためには最上の法にてまします。
たとひ自余の教法はすぐれたりとも、みづからがためには、
器量をよばざれば、つとめがたし。
われも、ひとも、生死をはなれんことこそ、
諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、
にくひ気せずば、たれのひとかありて、あたをなすべきや。
かつは、「諍論のところには、もろもろの煩悩をこる。
智者遠離すべき」よしの証文さふらふにこそ。
故聖人のおほせには、「この法をば信ずる衆生もあり、
そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまひたることなれば、
われはすでに信じたてまつる。
また、ひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられさふらふ。
しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふべきなり。
あやまて、そしるひとのさふらはざらんにこそ、
いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、
おぼえさふらひぬべけれ。
かくまうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。
仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、
ひとのうたがひをあらせじと、ときをかせたまふことをまうすなり」とこそさふらひしか。
いまの世には、学文して、ひとのそしりをやめ、
ひとへに論義問答むねとせんとかまへられさふらふにや。
学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、
いやしからん身にて[*8]往生せば、いかがなんどと、あやぶまんひとにも、
本願には善悪浄穢なきをもむきをも、とききかせられさふらはばこそ、
学生のかひにてもさふらはめ。
たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、
学文してこそなんどと、いひをどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。
みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて、他をまよはさんとす。
つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。
かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることをと云々

http://www.otani.ac.jp/tannisyo/d_honbun/eisyo/ei_13.html

 

歎異抄 第十一章

 投稿者:asobowzz  投稿日:2009年 2月23日(月)01時03分36秒
返信・引用
  一 一文不通のともがらの念仏まうすにあふて、
「なんぢは誓願不思議を信じて念仏まうすか、また名号不思議を信ずるか」と、
いひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいひひらかずして、
ひとのこころをまどはすこと。
この条、かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。
誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、
この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、
まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて生死をいづべしと信じて、
念仏のまうさるるも、如来の御はからひなりとおもへば、
すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、
本願に相応して実報土に往生するなり。
これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、
誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。
つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、
往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、
わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。
このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。
信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆへに、
つゐに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。
これすなはち、誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

http://www.otani.ac.jp/tannisyo/d_honbun/eisyo/ei_12.html

 

歎異抄 中序

 投稿者:asobowzz  投稿日:2009年 2月22日(日)00時50分53秒
返信・引用
  そもそもかの在生のむかし、おなじこころざしにして、
あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして、
心を当来の報土にかけしともがらは、
同時に御意趣をうけたまはりしかども、
そのひとびとにともなひて念仏まうさるる老若、
そのかずをしらずおはしますなかに、
上人のおほせにあらざる異義どもを、
近来はおほくおほせられあふてさふらふよし、
つたへうけたまはる。
いはれなき条々の子細のこと。

http://www.otani.ac.jp/tannisyo/d_honbun/eisyo/ei_11.html

 

歎異抄 第十章

 投稿者:asobowzz  投稿日:2009年 2月22日(日)00時48分36秒
返信・引用
  一 「念仏には無義をもて義とす。
不可稱・不可説・不可思議のゆへに」とおほせさふらひき。

http://www.otani.ac.jp/tannisyo/d_honbun/eisyo/ei_11.html

 

歎異抄 第九章

 投稿者:asobowzz  投稿日:2009年 2月21日(土)19時14分0秒
返信・引用 編集済
  一 「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころをろそかにさふらふこと、
また、いそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、
いかにとさふらふべきことにてさふらふやらん」と、
まうしいれてさふらひしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、
唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、
いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。
よろこぶべきこころををさへてよろこばせざるは、煩悩の所為なり。
しかるに、仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、
他力の悲願は、かくのごとし。
われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
また、浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、
いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと、
こころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、
いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、
まことに、よくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。
なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、
ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。
いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、
往生は決定と存じさふらへ。
踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくさふらはんには、
煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなまし」と云々

http://www.otani.ac.jp/tannisyo/d_honbun/eisyo/ei_10.html

 

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